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天守閣再考

最終更新:2001/6/10

 昭和の天守閣

 現在の大阪城天守閣は歴代3代目。昭和3年12月に予定された昭和天皇即位式の大阪市祝賀記念事業の一つとして、当時の関一大阪市長によって提案され、大阪市民の寄付によって豊臣時代の天守閣を復興させようとする企画がスタートした。わずか半年で目標金額の150万円(今にしてどれくらいの値打ちがあるんだろ?)が集まった。
 当時の大阪城一体はすべて軍関連の施設であり、大手門より本丸周辺を大阪市民の公園とする条件として、このうちの80万円(!)をさいて陸軍第四師団司令部の総合庁舎(現在の大阪市立博物館)を新築し、国に寄贈することが求められたという(ちなみに天守閣本体の建造費は47万円、残る23万円は公園整備のための費用に当てられた)。落成は昭和6年11月。当時最新式の鉄筋コンクリート製、エレベーター付。建物の重量を石垣にかけない工法は戦後の全国的な天守閣再建ブームの折にも全ての城で活かされた。
 平成8年4月より1年をかけて平成の大改修が行われたが、全ての外装を創建当時の姿に蘇らせるとともに構造自体も見直しを行い、震度7程度の直下型地震にも耐えられる耐震構造になったという。


 「お城の天守閣が鉄筋コンクリートじゃねえ」と大体においてこの天守閣は評判が悪い。建物自体も豊臣秀吉の天守閣を再建と謳われているが、大坂夏の陣を描いた黒田屏風を参考程度に作られたようで、現在なら文化庁が絶対に許可しないだろうというシロモノだったりするらしい。元々豊臣時代の天主台は今の場所ではないし、城内に残る他の徳川時代の櫓等が全て白壁に黒い瓦という質実剛健な作りであることを考えるとこの建物だけが城内で浮いているようにも思えてくる。
 しかし、築後70年を経てすっかり大阪を代表する光景の一つになってしまったわけだし、また、城跡を訪ねた時、天守閣があると無いでは印象が全く違う。もうちょっと温かい目でこの建物見守ってあげてもいいんじゃなかろうか。分厚い壁と骨太な昭和初期の鉄筋コンクリート建築を代表する歴史的な建物としての価値も十分あると思う。
最上層の虎のレリーフは夏の陣を描いた「黒田屏風」に基づく。天守の外壁装飾に鳥獣画を用いたのは豊臣時代の大坂城天守閣の他には全く例を見ないもの

 徳川時代の天守閣
天守閣夕景


 秀吉時代、そして現在の天守閣にはさまれて影の薄い印象の江戸幕府による天守閣だが、規模としては歴代の中で最大の規模を誇り、高さは推定で58mもあった。ちなみに現在の天守閣は54.5m、豊臣時代は約40mだったという。構造的には徳川幕府によって建てられた名古屋城、江戸城天主(古図)と同様白亜漆喰総塗籠、屋根は最上層のみ銅瓦葺、他は本瓦葺だった。城内に残る江戸期建築同様、質実かつ、清楚なつくりであったようだ(ちょっと面白みにかける?)。
 1627年末あたりの竣工とされ、大阪の町の新たな象徴となった大天守閣であったが、1665年正月2日、落雷にあって焼失した。当時の文章によれば夜8時に雷鳴とともに天主北側の鯱に雷が当たって火が立ち上った。そして夜10時に五重目が焼け、12時に二重目からも火が出て三重目に燃え広がり翌日朝6時には全てが焼け落ちてしまったという。城内でも最も高い場所にあるため消火もしようがなかったんだろうが、一晩中燃えつづけたというのは、それだけ規模の大きな天主だったってことなんだろう。
 以後、幕府の財政難ともあいまって幕末の大阪城大改修の際にも再建される事なく昭和の復興天主を待つことになる。



20010426