何度か書いたが豊臣時代の大坂城は何一つとして残っていない。大坂冬の陣後の惣構(そうがまえ)から三の丸、二の丸の堀埋め立てに加え、夏の陣での焼失、そして徳川幕府による再建時に堀から石垣の根石にまで全て作り変えられてしまったからだ。特に姫路城と同じく黒田官兵衛設計とされる本丸に至っては膨大な盛り土が施され、三段の複雑な曲輪によって構成されていた面影は全く無い。これは大阪城を語るときに是非とも知っておいて頂きたい事実だ。
とにかく豊臣秀吉の築いた大坂城は謎だらけだ。信憑性のある資料といえば中井家(徳川幕府の京都大工頭)より発見された本丸図があるばかりである。結局のところ大坂の陣布陣図や、その他文献から推察するしかないのが実情なのだが、豊臣秀吉によって完成された大坂城域は上記地図に赤く示した範囲だったことは確実である。大川(旧淀川)、東横堀川、空堀通り、JR環状線に囲まれたこの範囲は現在の大阪城域の約4倍に相当する。もちろん、これは幼い秀頼の行く末を案じた秀吉が彼の死前後まで続けた大坂城防御ライン拡充の結果広がった地域であり、この地域内にも大名屋敷、民家も存在したから、羅城としての大坂城域と呼ぶのが正解なのかもしれない。
今となっては想像力の助けを借りて想像するしかない秀吉の大坂城の実態。ただ、歩いてみると地名や地形にその痕跡が結構残っていたりもするこの地域。ここではそうした史実の紹介とともに、このあたりの地域紹介も兼ねてみたいと思う。
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