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造幣局の通り抜け/その由来
旧淀川沿いのこのあたりは古くから景勝の地として名高く、特に春には観桜の名所として知られたところ。秀吉の大坂城築城のころには織田信長の末弟、織田有楽斎が別荘を構えていたこともある。
開業当時の造幣局は現在のOAP(三菱金属跡地)あたりまでを含む広大な敷地を有していた(現在の約二倍)が、江戸時代に泉布観の北側にあった藤堂藩の蔵屋敷跡から造幣局の正門周辺の大川沿いに移植した里桜が毎年春になると多種多彩でみごとな花を咲かせていた。
明治16年、時の造幣局長だった遠藤謹助が「市民と花見を楽しもう」と花盛りの頃(初回は4月20日から3日間)桜並木を一般に開放したのがその始まり。
混雑の緩和のため一方通行としたため「後戻りできない通り抜け」がいつの間にか定着したという。当初、三日間だったが大正4年から一週間となった。 |
毛馬から天神橋までの旧淀川沿い河川敷4.5Kmは
見事な桜並木が現在も健在 |
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| 造幣局構内の「通り抜けの由来碑」 |
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| 受難の歴史 |
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| 明治時代半ばころは片側だけの並木だった |
初回から数えて120年余、ナニワの春の風物詩として定着した「通り抜け」だが様々な受難の歴史がある。明治18年の淀川大洪水の折にも大きな被害を受けたし、明治末から加速度的にひどくなった「煙の都、大阪」の大気汚染の進行によってここの桜並木も絶滅寸前に追い込まれたことがある。
この時は「桜博士」秋山忠次郎を招き、埼玉県などから桜の苗木を買い入れ移植した結果、昭和6年には74種764本から成る560mの見事な桜並木が復活したという。
そして第二次大戦での戦災。造幣局の建物も7割近くが空爆で被害を受けたが、昭和20年6月15日の空襲により桜並木も300本が焼失してしまう。
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| 戦後、そして現在 |
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| ここでしか見られない花も数多い |
戦後は造幣局の復興と共に桜並木も修復され、戦中の昭和17年から中断された通り抜けも22年に再開、26年からは夜桜も始まった。
その後は植物園、造園関係者に委託して桜並木の維持管理に努めているが、思い出されるのは昭和42年4月22日の惨事。土曜日の夜ともあって20万人もの市民が夜桜見物に押しかけたこの日、閉門を10分後に控えた午後8時50分頃、通り抜けようと南門付近に殺到した見物客が折り重なって倒れ、老女1人が死亡、27人の重軽傷者を出した。
これを期に道路の拡張、閉門時間の延長などの対策が講じられるようになったが、やはり大阪にとって「通り抜け」は春の最後を締めくくるに欠かせない風物詩となっている。 |
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造幣局の桜は何と言っても種類が豊富なのがその特徴。観賞用として扱われる桜200種中、約120種が造幣局の敷地内に揃うという。
大川沿いに沿った560mの並木道いっぱいに咲きそろった約120種400本の桜比べは一度は経験しておく価値がある。 |
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OAP「桜展望台」から望む造幣局全景
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